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記事内容

~ 楠部彌弌 ~2022.04.26

…… …… 《 楠部彌弌 》 くすべやいち 1897年~1984年 ……… ……… ……

『作品の特徴』
釉薬を磁土に混ぜて何度も塗り重ね、文様を表現する技法「彩埏(さいえん)」という独自の技法で高く評価されています。この技法により独特の深みのある色合いとレリーフのような文様が生み出されます。


『 略歴 』
・ 1897年(明治30年)楠部貿易陶器工場を経営する父(楠部千之助)の四男として生まれる。父はかつて幸野楳嶺に日本画を学び僊山と号した。1912年(明治45年)京都市立陶磁器試験場付属伝習所に入所。八木一艸・川村喜太郎が同期生である。
1915年(大正4年)に卒業後、家業を継がせたい父に反し、東山の栗田山にアトリエを構え創作陶芸を始める。大正9年八木一艸、川村己多良(喜太郎)ら5人と「赤土」を結成し、陶芸を生活工芸から芸術へと運動を始めるが、大正12年自然消滅すが翌年「百仏飾壷」をパリ万国博覧会に出品し受賞。1927年(昭和2年)八木一艸らと「耀々会」を結成、同年に工芸部が新設され帝展にて「葡萄文花瓶」が入選。1933年(昭和8年)帝展にて「青華甜瓜文繍文菱花式龍耳花瓶」が特選を受賞し、同年に「彌一」を「彌弌」と改名する。翌年に帝展無鑑査となり、この頃、朝鮮の古陶磁や仁清などの研究に没頭する。昭和12年パリ万博で「色絵飾壷」が受賞し、同年、第1回新文展に「彩埏」の技法を用いた「黄磁堆埏群鹿花瓶」を出品。
戦後日展をボイコットしたこともあったが、昭和26年「白磁四方花瓶」が受賞。
37年日本芸術院会員となる。また、中国古来の彩色法を研究しながら早蕨釉」、葵釉(碧玉釉)などの発色法を考案。
昭和44年 京都市民文化功労者
昭和53年 文化勲章受章。


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